首里城5度目の火災

                                   12期 具志 有芳

昨年11月上旬に放研OB会、前会長の砂岡 茂明君からメールをもらい、過日(11月9日)行われたOB会の幹事会で「OB会機関誌マイトーク」の次号の議題の中で藤原先輩から「首里城の焼失」について載せたらどうかと発言があり、ついては沖縄にゆかりのある具志 に依頼したらどうかという提案があったそうだが、その場にいた砂岡兄もその件については同感だったので、是非今回は寄稿してもらいたいとの内容だった。

私事(わたくしごと)で恐縮だが、私の父親も母親も先々代(曾祖父 そうそふ)が琉球王国の郷士(ごうし)で母親は沖縄から東京の大学に進学した時から卒業するまでを東京九段にあった尚家(しょうけ 元琉球王国 国王))のお屋敷に寄宿していたそうで、詳しいことはわからないが、尚家とは何らかの縁(えにし)があったのかもしれない。
私は父親が国家公務員だったので、瀬戸市で生まれ、幼い時に父親の実家、那覇市の久茂地(くもじ)でしばらく過ごしたことはあったが、尚家については全くわからず、首里城の火災については、大変残念なことで、許されることなら是非再建してほしいとは思うが、マイトークへの寄稿については首里城のことについて、殆ど知識がない私が書くのはどうかなと思い、多少のためらいもあって一度お断りしたが、NHK沖縄放送局に勤務されていた藤原 尚武先輩の推薦を辞退することは大変失礼だと思いなおし、改めてお引き受けすることにした。

「首里城5度目の火災」
琉球王国は1429年、尚 巴志(しょう はし 1372年~1439年、王家 第一尚氏王、尚 思紹 しょう ししょう 1354年~1421年 を始祖として7代63年間 1406~1469 続いた琉球最初の統一王朝を作り上げた王の子)が奄美半島と沖縄諸島及び先島諸島までを征服し、琉球で最初の統一王朝を樹立した国王で琉球王国としてアジア諸国との交易を大変盛んにしたそうだ。そのため国際色豊かな文化が育まれてきたそうだが、政治、外交、文化の中心地として威容を誇った首里城が1609年薩摩藩の侵攻を受けた後、日本の薩摩藩の体制に組み込まれ、1872年(明治5年)、薩摩藩の傘下になったそうだ。尚 円王(しょう えんおう 1415年~1476年 クーデターで第一尚氏王統を倒し、第二尚氏王統の始祖として初代国王になり、1469年から1879年までの410年間琉球王国を統治した)第二尚氏王統の第19代目として最後の琉球国王となった尚 泰が1879年(明治12年)琉球藩設置に伴い、首里城を明け渡した時に琉球王国は崩壊し、沖縄県が誕生したそうだが、明治政府は尚 泰を琉球藩王に封じて華族として 東京麹町区「靖国神社」隣(元長州藩 木戸孝允 きど たかよし・ 通称 桂小五郎 邸跡)、現在の「千代田区立九段中等教育学校」の場所に藩邸を与え、その後、華族令の発令により侯爵となったが、1901年(明治34年8月)、59歳で亡くなり、墓所は沖縄県那覇市の首里城の近くにある琉球王国・国王の陵墓、王陵(たまうどぅん)に祀られているそうだ。

私が首里城の火災を知ったのは10月31日夕方のNHKニュースだった。
「正殿(せいでん)や南殿、北殿、主要建築7棟4,800平方メートルなどが全焼、建物群で収蔵していた1,500点の絵画や漆器のうち400点近くが焼失した可能性が高い」とのことだった。
出火原因について消防当局は電気系統のトラブルが原因との見方を強めているとのことだった。
私は大変びっくりしたが不謹慎な発言かもしれないが、出火原因については、まだ不明だそうだが正直、放火やタバコの火の不始末ではなくて、電気系統のトラブルが原因だとの見方が強いとのことだったので心の隅では少し安堵した。

琉球王国は前述の通り今から590年前1429年(室町時代・永享元年)足利義教(あしかが よしのり)の時代に尚 巴志によって成立したが、140年前、1879年(明治12年)明治政府による琉球藩設置に伴い、最後の琉球国王、尚 泰の時代に崩壊した。
首里城は琉球王国時代の500年以上も前に建てられ、大平洋戦争以前に3回焼失したが、三度目の火災後再建された時、大正14年に正殿は国宝に指定されたそうだ。
一度目の焼失は1453年(享徳2年)尚 金福王の死去後、王位継承権争いによる戦争(志魯・布里の乱)に巻き込まれて城内が完全に破壊された時だそうだ。
二度目は1660年(万治3年)のことで、火災で正殿が炎上、当時、再建に11年の長い年月を要したそうだ。
1709年には三度目の火災が起き、正殿、南殿、北殿が炎上、この頃は財政が逼迫(ひっぱく)し、大変厳しい時代で、良材の不足がちの琉球では1712年(正徳2年)首里城を再建するのに薩摩藩から2万本近い原木を提供してもらい1715年(正徳5年)にやっと再建計画が完了したそうだ。
そして四度目は、当時日本軍が首里城の地下に司令部壕を置いていたこともあって、1945年5月25日から3日間にわたりアメリカ軍艦ミシシッピーなどからの砲撃を受け、守礼門から正殿まで首里城はすべてが全焼、焼失したそうだ。

私はこれまで3度首里城を訪れたことがあるが、初めて訪れたのは今でもよく覚えているが、那覇空港での日航ジャンボ機ハイジャック事件があった日の前日、1974年(昭和49年)3月11日だった。(少し余談になるが、3月12日羽田発那覇行きの日航ジャンボ機が着陸寸前に18歳の男にハイジャックされ、その折り返し便に乗るために空港ロビーにいた私たちは空港で足止めされ、公共の交通機関がすべて遮断(しゃだん)されたため、那覇市内の久茂地の親類の家まで歩いて帰ったことを今でも鮮明に覚えている)当時の首里城は戦火でほとんどの建物が崩壊し荒廃しており、昔の姿を見ることのできる数少ない建物は1958年(昭和33年)に再建された「守礼門」くらいしかなかった。
この門は首里城の大手門に値する楼門で4本の柱で二層の赤い琉球瓦を載せた門の扁額には「守禮之邦」と書かれていたがこれは「琉球は礼節を重んずる国」という意味だそうだ。

1989年(昭和64年・平成元年)首里城正殿、南殿、北殿、等の復元工事が着手されたが、1992年(平成4年)正殿を中心とする建築物群、そして守礼門から正殿に至るまでの門と城郭が再建され、首里城公園として開園したそうだ。
そして2000年(平成12年)2月21日から23日までの3日間「九州沖縄サミット」が名護市で開催され、日本の森首相をはじめ、クリントン大統領(米)、シラク大統領(仏)、プーチン大統領(露)等8ヶ国の首脳が参加して行われたが、最終日の晩餐会が那覇市の標高120mの小高い丘の上に立つ東西約400m、南北約200m、広さが約5haほどある首里城の中心部、中庭広場の「御庭(うなー)」に面した北殿で行なわれたそうだ。

私が2度目に首里城を訪れたのは2001年(平成13年)2月、「放研12期ゴージャス沖縄の旅」で沖縄各地を旅行した時のことだった。参加者は12期生が12名、(中、6名が夫婦で参加)14期生が2名、)総勢20名の賑やかなメンバーだった。

【首里城守礼門前で】
「写真は、2001年2月に、12期の同期会で首里城を訪問したときのものです。
この時の同期会には、14期の有志も参加しました。」


琉球王国の栄華を物語る世界遺産「首里城公園」には「守礼門」から入り、「園比屋武御嶽石門(そのひやんうたきいしもん 琉球石灰岩で造られた建造物で国王が外出するときに安全祈願をしたといわれる礼拝所)」の横を通り、1974年(昭和49年)に復元された首里城の正門で中国皇帝の使者”冊封使(さっぽうし)など、訪れる人への歓迎の意を込めて名前がつけられたと言われる「歓会門(かんかいもん)」そして「瑞泉門(ずいせんもん)」「漏刻門(ろうこくもん)」「広福門(こうふくもん)」をくぐり、首里城正殿のある「御庭」に入る最後の門「奉神門(ほうしんもん)」をくぐって、首里城の中心部で年間を通じて様々な儀式が行われた広場、赤と白の「敷き瓦」が敷かれている「御庭」に出た。
ここでは琉球国王、尚家の家臣らが国王に謁見したり中国からの使者を迎え入れたりするための広場が設けられており、そこを取り囲むように南殿、番所、北殿が建てられていた。
「南殿」は奉神門から正殿を正面に見て右側にあったが、日本様式の建物で、おもに薩摩藩の役人を歓待するために使われ、「番所」は首里城来訪者の取次所だったそうだ。
そして左側にある「北殿」は琉球王府の行政施設だったそうで、迎賓館としても使われていて、中国からの冊封使が来た時には、ここで酒や茶をふるまい、組踊などの琉球芸能を見せ、大いにもてなしていたそうだ。先程も述べたが2000年に行われた「九州沖縄サミット」の最終日に行われた晩餐会もここ「北殿」で行われたそうだ。
奉神門の中央部から正殿までまっすぐに延びている5cm程高く造られた赤いタイル状の瓦が並べられている中央の道を「浮道 (うきみち)」といって国王や中国皇帝の使者「冊封使」など限られた人が通ることを許された道だそうで、正面には琉球王国最大の建造物首里城正殿があり、ここは琉球の津々浦々までを支配していた琉球王国の象徴として最も重要な建物だったそうだ。

【首里城石垣前で】
「右端が筆者の具志有芳さん」


2019年(令和元年)10月31日未明に沖縄、首里城で火災が発生。世界遺産に指定されている首里城の正殿に加え、北殿、南殿・番所、書院・鎖之間(さすのま)、黄金御殿(くがにうどぅん)、二階御殿(にーけーうどぅん)の計6棟4,200平方メートルがほぼ全焼したとのニュースがNHKは勿論、BBCからも配信され、ほぼ同時に世界中の人々がこのビッグニュースを知ったそうだ。
首里城の創建年代は明らかではないが、現在は14世紀末のものと推定されているが、正殿を含む大規模火災は前述の焼失に次いで歴史上5度目の焼失になった。

沖縄県の玉城デニー知事は火災直後の翌11月1日首相官邸を訪れ、菅 義偉官房長官に首里城再建への協力を要請したそうだが、菅 義偉官房長官も12月21日那覇市を訪問し、がれきが積み上がり、焦げ臭さが残る正殿の焼失現場を玉城デニー知事も同行して視察したそうだが、視察後「多くの施設が焼失したのを目の当たりにして被害の大きさを実感した。復元に向けて全力を尽くす決意を新たにした」そして今年度内に正殿などの復元に向けた工程表を策定する方針を説明し、「来年4月末までに正殿の地下遺構の見学を再開できるよう準備する考えを示し、沖縄県や地元関係者と連携し、国営事業である復元に責任をもって取り組む」と同行記者団に述べたそうだ

また11月11日に東京で行われた「全国知事会」では首里城の早期再建に全力で取り組むよう国に求める緊急決議を全会一致で採択し、会議に出席した宮崎県の河野知事と鹿児島県の中村副知事からも首里城再建で課題となっている木材の供給について全面的に協力する意向を玉城デニー沖縄県知事に伝えたそうだ。

首里城正殿、南殿、北殿などの復元工事が着手された1989年(昭和64年・平成元年)時は強風や重い赤瓦屋根に耐えるため、直径1.5m以上、長さ10mの湿気に強い木が百五十本程必要だったそうだが、求められているような木は、国内にあるにはあったが地元の承諾などが得られず伐採が出来ず、結局調達できたのは台湾産の台湾ヒノキだったそう
だ。
しかし現在は環境保護の意識が高まる中で台湾ヒノキの伐採は規制されており、大径木材は世界的にも枯渇しており、海外から調達するのは困難だとの指摘も多くあるそうだ。

宮崎県はスギ丸太生産量が28年連続日本一で、前回1992年復元された「正殿」の唐破風の屋根を支える豪華な向拝柱(こうはいばしら)にも宮崎産イヌマキが使われたそうで、鹿児島県も屋久島町などがスギ丸太の提供をすでに沖縄県に申し出ているそうだ。

首里城の再建については他にも課題が山積しており、特に沖縄の紺碧の空に美しく映える屋根の赤色はクチャに含まれた鉄分が生み出すそうで、その赤瓦を作るには「クチャ」と呼ばれる沖縄本島中南部の与那原町近郊で主にとれる黒っぽい灰色の泥岩が必要だそうで、1992年の復元時には沖縄屈指の赤瓦職人と言われていた奥原崇典(おくはら そうてん)氏が中心となり、赤瓦の主原料「クチャ」に少し赤土を加えたものを成型して50日ほど自然乾燥させてから、通常よりも高い温度で焼くことで強度を上げ、表面に艶がある最高級の赤瓦を焼き上げる独自の技術で、正殿の5万5000枚分を含め約22万枚の赤瓦を作ったそうだが、その高い技術を持った奥原氏も5年前に亡くなり、首里城の伝統的赤瓦建築は瓦葺きと漆喰技術の両方を兼ね備えた職人が携わるため、高い技術を求められる職人が減少し、高齢化が進んでいるため、現状では大変困難なようだ。

首里城は琉球の歴史と独自に育まれてきた文化の象徴でもあり、年間300万人近くの人々が訪れていただけに観光面でも打撃が大きく、再建については沖縄の人々だけでなく沖縄の文化を愛し、これからも継承されていくことを願う多くの人々の思いも込められている。
五百年以上も前、首里城の建築に携わった先人達の為、次世代の若い人達の為、そして首里城を愛する世界の人達の為にも、日本が世界に誇る匠(たくみ)の技を結集して更なる防火対策、耐震対策の構築を徹底して、かつての琉球王朝の象徴、首里城の一日でも早い再建を是非果たしてもらいたいと、ひたすら願うばかりだ。

※「マイトーク」への寄稿ですが、紙面の都合でホームページへ 掲載させていただきました。